日々の雑感

好きなのはヘリオガバルス帝です。雑学や思想の宝箱にしたい

文章の書き方について思うこと

 

幼少期からピアノを弾いている私は、ちょっとだけなら作曲して楽譜を書くことはできる。しかし、音楽を個人的に習っていない人は曲を考えて楽譜に起こすことなど普通はすぐにはできないだろう。(一部の天才については今回の話では例外として置いておく事にする。)例え毎日どんなに音楽を聞いている人だったしても、やっとできてもメロディーラインが少し考えられるぐらいで、記譜法が分からないことはもちろん、曲の構成などを現代的な整った音楽にすることは難しいだろう。結局、当たり前ではあるが、「書く方法」を知らなければ、書けない物なのだ。私が音楽を少しだけ書けるのは、そういうことを少しだけ理解しているからだ。

文章も同じだと思う。今私はこうして実際に文章を書いてはいるが、果たしてこれで文章として整っているのか、更には日本語が正しく使えているか、分からない。音楽に例えれば台所のお母ちゃんが歌う自作の鼻歌みたいなものだ。ただ垂れ流すだけ。人に何かを伝えたいのなら、これではいけない。相手に読みやすく正しく伝わる文章が書けるようになりたい。

だからといって闇雲にたくさんの文章を読んだり書いたりすれば文章力が身につく、ということは無いだろう。文章を読むとき、それを構成する文の塊が、文章全体の中でどのような役割を果たしているのか分析することを通じて書き方を獲得できるのではないかと思う。

 

この文章で例えてみよう。形式段落を番号で捉えて説明していく。

 

  • ①「音楽」という切り口で、「知らなければ作れない」という命題を提示
  • ②①で提示した命題を「文章」に適用し、それを問題として提起する
  • ③具体的な内容を例を交えて記述


こういうことだ。私の文章はまだ洗練されておらず構成も美しくないが、こうして整理してみれば、文章の塊ごとの役割ぐらいは見えてくる。

いい文章を読むとき、これらの役割を文章や段落同士がどのような順番でバトンタッチしているか。それぞれの文がどれだけの距離を走っているのか。そういうことを見ながら文章を読むことで、まだ私も分からない「書き方」も少しずつ分かるのではないだろうか。

以上が私の分析である。これで文章が書けるようになるかどうかは、私の成長がいつか実証してくれるだろう。

それこそ嘘だろ

 

なんでも昔は「嘘」はすぐわかるものであったらしい。

昔の人は嘘を付くときには、口をすぼめて言ったとか。

いつの話かは知らん。

ちなみに「嘯く」の元々の意味は、「口をすぼめて強く息を吹くこと」。それに「平然と大きなこと(ウソ)を言うこと」などの意味が加わっていったらしい。

ウソだかホントなんだか。